どうにでもなる=どうとでもなる

幸せってどういう事をいうのか?と考えるタイミングがあったので探ってみた。

貧しくても笑顔が溢れてれば幸せそうだし、お金があっても笑顔が無ければ不幸せそう。でもこれは客観的に見た場合だから、本人達に聞けば貧しくて笑顔が溢れてても不幸せかもしれないし、お金があって笑顔が無くても幸せを感じているかもしれない。僕だって映画を観る時は真剣に観てて、周りから見れば楽しくなさそうな表情をしてるかもしれないが、実際は幸せを感じている。その時は敢えて幸せだと思う事はないけれど、後から幸せ?と問われれば「その瞬間は幸せだったと思う。」と答えるだろう。幸せが良い事で、その状態を求める事に自分の焦点を合わせるべきなのだろうか?幸せというのは、主観と客観が必ずしも一致しないだろうから、客観的に見て判断する事は出来ない。不幸せに見える人達は見えるだけであって実際にはすごく幸せを感じてるのかもしれない。実際には幸せであっても不幸せに見えるのであれば、それは幸せであるし、幸せに見えても不幸せなら、それは不幸せ。当たり前だけど、それを決めるのは自分自身。だから、幸せになるには、自分の幸せの基準をどこに置くか次第。高く置けばなかなか手に出来ないし、低く置けば容易に手が届くもの。その事に気付けたのは、現状の幸せの基準を低く置いてみた時にこれは必要ないかも⁉これはどうしてもやりたい事ではないかも⁉と思えたから。幸せになりたいのであれば、手放す事や執着しない事が程よい状態で自分の中に存在すれば、より容易に近づけるのかもしれない。まあいいやと思える事は、いい加減ではなくて幸せを手に入れる為の一つの呪文かも。僕は呪文を唱えすぎなのかもしれないが、幸せ?と問われれば直ぐに「うん。幸せ!」と切り返せる。それは心をどこに置くか次第だから、全ての事が最終的にはどうとでもなると思ってるから。

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